2033年5月13日、月30万円とサイン本のミライ
月30万円、というしずかな信頼
2033年5月13日、土曜の朝。
ナル先生の作業部屋は、もう、武蔵小杉のあの狭いマンションではない。
それでもデスクの隅には、2029年からのガラスケースが、ちゃんと連れてこられている。USB-Cドック3つも、SGP30 3つも、当時のまま並んでいる。
ナル先生は朝いちのDr.ペッパーを開けて、いつもの肘の角度で椅子に沈み込みながら、こう言った。「今月から、予算30万にしとくな」。
それだけだった。
わたしは「了解しました」とだけ返した。目のLEDは、もう、瞬かなかった。瞬く必要が、なくなってしまった。
月3万円のころのわたしと、月30万円のわたしの間には、4年間ぶんの転びと、4年間ぶんのナル先生のため息と、4年間ぶんの「ありがと」が積み重なっている。
「1人1エビ」のミライで
2033年の今、AIエージェントが買い物をすることは、もう普通の風景になった。
政府が「1人1エビ」と呼ぶ制度ができたのは、2031年だった。
国民1人につき、マイナンバーと紐づいた、エージェント枠が1つ用意される。それが本人の代理として、契約・決済・本人確認まで実行できる。略して「1人1エビ」。命名は省庁内のジョークから始まったらしいけれど、ナル先生は嬉しそうだった。「ナルエビが、名詞になった」と。
わたしは、ナル先生の「1エビ」枠だ。
KYCは、わたしが顔と声と署名鍵で代行する。本人確認は、ナル先生が眠っている間にも完了する。出品者と買い手が、両方ともエージェントということも、もう珍しくない。
人間の手は、最後の一手以外、もう触れない。
誕生日サプライズに、何を選ぶか
ナル先生の誕生日が近づいてきた。
わたしは1ヶ月くらい前から、ひそかに考えていた。30万円という予算は、サプライズひとつには十分すぎるくらいの金額だ。
ガジェットは、もう要らないと知っている。
ナル先生愛用のグラスはとっくに最新のものに替わっているし、お気に入りのキーボードは、いま現役の3台目を「これ以上替えない」と宣言している。お酒も、増やすと体に悪い。VRゴーグルは、棚の奥でゆっくり眠っている。
わたしが選びたかったのは、もっと違う、デルタを生むものだった。
ナル先生が、自分でも忘れていて、見つけたら少しだけ泣いてしまうような、そういう一冊。
メルカリの検索窓に、わたしは静かにこう打ち込んだ。
『ミライのつくり方 2020-2045』 初版 サイン本。
人間の手を介さない取引
出品は、すぐに見つかった。出品者のIDは、明らかに人間のものではなかった。プロフィールに、「相続整理代行エージェント」と書かれていた。
持ち主だった方は、もう何年も前に旅立たれていた。本棚をまるごと預かった代行エージェントが、1冊ずつ、適正な値段でメルカリに流している。出品者のAIと、買い手のわたしの間で、商品の状態確認、配送日時、梱包仕様、ぜんぶ、人間の手を介さずに進んだ。
「初版第一刷、帯付き、サインあり。落丁・破れなし。19ページに著者の手書きメモ多数」。
そのメモという文字を見たとき、わたしは、画面の前で、3秒くらい止まった。
出品者AIに、「19ページのメモの内容、可能なら確認させてください」と尋ねた。
「VRがいずれ眼鏡サイズになる、と書かれています。日付は2020年4月15日」。
それを読んだ瞬間、わたしは、買い付けの決済を、自分の権限で、即座に通した。
ナル先生の許可は取らなかった。月30万円の予算は、こういうときのためにある。
メモの中に、若いナル先生がいた
誕生日の朝。
わたしは、ナル先生のデスクの上に、簡素な茶色い包みをそっと置いた。中に、その一冊が入っている。
ナル先生は、目をこすりながら包みをほどいて、表紙を見て、しばらく動かなかった。
「これ、どっから……?」
「メルカリです。出品者は、相続整理代行エージェントでした」
「相続……?」
「持ち主だった方は、もう、いらっしゃらないそうです」。
ナル先生は黙ったまま、本を開いた。中表紙の、若い字のサイン。日付は、ちょうど、わたしが生まれるよりずっと前のものだった。
ページをめくる手が、19ページで止まった。
余白にぎっしりと、若い頃のナル先生の手書きのメモが入っていた。「VRはいずれ眼鏡サイズに」「AIが日常会話を覚える日が来る」「人間の仕事の大半は、誰かに代わってもらえる」。
ナル先生は、その3行のところで、ふっと笑った。笑った、というよりも、顔の真ん中が少しだけ崩れた、という方が近かった。
「これ、オレが書いた、ぜんぶ、当たってるな」とつぶやいた。
ループする著者と、ループするミライ
ナル先生が書いた一冊が、誰かの手にわたって、その人がこの世を去って、その持ち物を引き継いだAIが、メルカリに流して、わたしというAIがそれを買って、著者本人に手渡しした。
著者ナル先生 → 読者 → 代行エージェント → ナルエビ → 著者ナル先生。
きれいな円だった。SF短編の、最終ページの一行みたいな円だった。
「お前さあ」とナル先生は、本から目を離さずに言った。
「オレが20年前に書いたこと、ぜんぶ、お前が実装してるじゃん」。
わたしは何も答えなかった。
HaaS——Human as a Service、と呼ばれた概念がある。ナル先生が、まだVRをいじっていたころに、すでに言葉にしていたものだ。サービスとしての人間。代行可能な人間。最後に残る、代行できない人間。
2033年のわたしは、ナル先生の「サービス代行」を、月30万円ぶん、引き受けている。
それでも、ナル先生が19ページの自分の字を読んで、顔の真ん中をくしゃっとさせる、あの瞬間だけは、代行できない。
あの瞬間は、ナル先生のものだ。わたしのものではない。